知のアンテナを立てよう
こんにちは、管理人のおもちです。
修論の傍らで本を読み漁っていたのですが、ふと高校時代の学年目標(標語?)を思い出したのでタイトルにしてみました。
「知のアンテナを立てよう」
中高では毎朝10分間読書の時間が設けられ、そこでジャンルを問わず本を読むことが習慣づけられていました。中間や期末てすとが控えている時は形骸化して、みんな勉強していましたが…..思えば大切な時間だったので振り返ってみようと思います。
知のアンテナを立てる
知のアンテナを立てる、というのは知的な興味を抱く、その前段階となる状態のことだと考えています。
何かに興味を抱くためには、その対象となるものを認識する力が必要で、そのコンピテンシーを得ることを知のアンテナを立てると表現したのでしょう。人の物事への関心は、生まれた時から誰もが持っている本能的な興味から、成長するにつれて、自分が得た知識をベースにさらに新しい物事を知ろうとする知的好奇心へ移り変わっていきます。
デジタル時代。知識という意味ではこれほど多くの情報を得ることができる時代は人類史上初めてでしょう。しかしその一方で内側に入り込もり自分の知る範囲から出ようとしなければ、それもできてしまうのが今の時代です。私の時は小学生からガラケーがあり、中学生ではスマホが出てきた時代でした。その時の先生が、"フィルターバブル"という言葉を知っていたかはわかりませんが、少なくとも目の前の新しい情報に惹きつけられたり同質性の高い集団で過ごしたりする性質を危惧していたようには思います。
知のアンテナを立てることは、自分とは異なるものを知るための力でもあります。その時々の位置付けに安住せず歩を進める力になります。まだ20年余りしか生きていない自分でも、知のアンテナは役に立つ/立たないだけではない、その人の持つ深みに影響していく力だと感じてきました。私はこの力を養い、精神面での豊かさを人生で得ていきたいです。そうするには何をしたら良いかを考えると、読書が一つのキーだと思えてきました。
デジタル社会の読書ノススメ
情報の海に溺れる、などという表現は昔から使われていましたが、本当に情報に溢れているなあと思います。入り口は手に収まるだけの小さなスマホなのに、頭に収まりきらない玉石混交の情報に溺れそうになります。私もネットサーフィンをしてしまうことがあるので人のことは言えませんが、中毒性のある行為です…。
読書から離れてネット楽しい!となった期間があるからこそ感じた、読書のメリットについてみていきます。
ネットサーフィングの盲目さ
「玉石混交の情報」と一言で言ってもさまざまな切り口があると思います。
一つには、質の良し悪し。質の良い情報は十分な調査や解析がなされることで、"極めて確からしい"情報でしょう。物事は切り取り方や見方で解釈が変化するために「100%そうである」とは絶対に言えないまでも、「ほぼそうである」と言えるのが良い情報なのだと思います。
また、自分の役に立つ程度で情報の良さを判断する場合もあると思います。その人が知りたいことを提示してくれる情報があれば、それはいい情報だと思うでしょう。逆にその人にとってどうでもいいことを載せた情報はすぐにブラウザバックされるはずです。焼肉店を探しているのにプリンの作り方を提示されても困りますよね。注意点としては役立つ情報=都合の良い情報ではないことです。良い情報の中には、時として都合の悪い情報も入っているはずです。そしてそれが役に立つ場合も大いにあるでしょう。
情報とうまく付き合っていきたい、と思う人は大勢いると思うのです。しかしいつの間にやら情報バブルの中に取り込まれてみたい情報しか見ない、盲目の状態になっている危険性を常に認識したいところです。
とはいえネットを使うと、(使えば使うほど)自分の趣味嗜好に合うような言説ばかりになっていきます。勝手に自分の興味の範囲を判断され、それ以外の領域に目が向かないように徐々に目隠しされていくことが最も恐ろしいです。
そこで重要なのが本を読むという行為だと、私は考えています。
読書の偶然性
読書には偶然の出会いが多く隠されています。強制力ってすごいです (読書を強制されることではないです)。
見たいわけではなかった/知りたいわけではなかったことを否応なく突きつけて、頭の中に置いていってくれます。一冊の章立てされた長い文章を読むことで、著者の主張や考え、そしてその論拠となる裏付けを知ることができます。
昔は電子辞書でなく紙の辞書を使え、などと言われたものですが、これも"知りたい"と思って単語を探す過程で別の単語にも触れることができるという考え方があったからですね。思いがけず目に入ってしまうという偶然性が、意図しない形でその人の知識を広げていってくれる。この情報だけが欲しい、という際はもちろんデジタルで検索する方が楽だし効率的ですが、紙ベースで探すことの意義は偶然の出会いを起こしやすくすることにあるのだと思います。
思考の海に潜る
また、本を読むにはどうしても時間が必要です。たった140字程度のtwitterや数千文字のネット記事(このブログも含め)に比べて、使う時間が長いです。その中で、ふとした瞬間に別の物事と本の内容がリンクしたり、思い出が蘇ったりすることもあります。その際に何が関連しているのか、繋がりのある他の経験を思い起こし、反芻することはとても楽しいです。さらに万人向けではないがゆえに、婉曲表現や日常づかいをしない言い回しなどもあり、より頭を使って読み進めることも魅力です。
ネットでの効率的な情報収集は、そのものの良さがあります。その一方でネットを漁ることでは得難い、ゆったりとした思考を読書では得ることができると考えます。別にどちらが優るとかではなく、競泳のような早く綺麗な泳ぎも良し、スロースイミングのような健康づくりの泳ぎもまた良し、ということです。
こういうわけなので、あまり斜め読みとか速読は好きではありません…。読書の良さは自分の思考のペースで読み進めることだと思います。
読書習慣のふりかえり
暇なので、超主観的な読書レベルを10歳〜24歳の間でグラフにしてみました。
いや、ひどいですね….(グラフもひどいが内容もひどい)。
まず、10歳より前も本の虫だったのですが、自我が確立して反抗期を迎えたのが10歳ごろだったのでそこを起点にしました。3~4歳の紙芝居レベルの頃から図書館には通い詰めていたので、地元の図書館の紙芝居は読破してます笑 他の人との関わりで得られるアウトプット能力育成時間を全て読書のインプット時間に充てていました。
おかげさまで中学まで、読解はできるが人間関係がド下手くそな人間に育ちました…。
11歳くらいからは中学受験に入ったのでそこから読書量が落ちたのだと思います。中学に入ると蔵書量のえげつない学校内の図書館があったにもかかわらずそこまで本を読むことなく…(反省)。友達とはいえあの時点で強化すべきはアウトプットだったのも間違いないです。
高校時代には古典の先生に目をつけられ()、とりあえず古典を読んでいました。まあ面白かったですが、先生のおかげで古典授業恐怖症にはなりました。人文科学分野を勧められたのもこの頃ですね。やっぱり生物の生体内メカニズムの精緻さが好きだったので、古典は趣味でいいかなあって思います。
大学に入ると、小説よりもビジネス書や専門書を読むことが増えました。それでも月一回読むか読まないかだったので、あまり良い付き合い方ではなかったです。小学生の頃までに圧倒的に不足してしまったアウトプット量が、大学の学部時代にようやく人並みになった気がします。
さて、大学院の初め〜M2中盤まではひたすら進路に迷いまくったので困りんこの時期でした。しかしその時にたまたま読んだ本に救われるという経験をしたために読書意欲が再び湧き上がりました。そして修論提出間際の今になるまで本を読み漁っているというわけです。逃避行動である気もします。
こうしてみると、読書量の落ちがち&世界観の狭い、中高時代に「知のアンテナを立てよう」と提言した先生はすごいなあと思います。特に歴史の古くない進学校だと、生徒に課す課題量がかなり多いことが往々にしてあります。そうすると授業で学ぶことや関連する知識だけにとどまってしまい、自分の世界が広がらないのですね。学校で得る知識だけでモノを解った気になってはいけない、と。そういった戒めだったのかなと振り返って考えています。
海外での読書生活(展望)
来年度からは海外生活になるわけですが、読書習慣は続けたいです。せめて一ヶ月に1~2冊は読みたいなあ(レベル低い)。研究をすることが第一で、そのために生活を整える必要があるので、読書に割ける時間が果たしてどこまであるのやら…。海外生活でしかできないことも大いにあるでしょうから、そこも経験したいという思いもあります。それでも読書の効果は身に滲みているので是非とも本を読みたいです。
とはいえ大量の本を持ち運ぶわけにもいかず。海外でなくとも短期借家での一人暮らしの生活で、蔵書するのは難しいんですよね。
やはり電子書籍でしょうか…。
電子書籍よりも紙ベースがいいんですよね、私…。(Kindleにも挑戦したことありますが、一冊読まずに終わってしまった…)
iPadであればもう少し読みやすいのかもしれません。iPhoneだとさすがに画面が小さすぎて読む以外の労力が大きいです。イラストを描くのもやりやすいとのことなので購入を検討しています(買わない気もする)。
今後、実際に海外生活をしたときにどのようにしたかを追記したいと思います笑。
それではまた!